ダイバーシティに関するGood Practice

LambentIP代表で米国弁理士の小林先生へのインタビュー

日本工学アカデミー ジェンダー委員会学生委員
京都大学総合生存学館総合生存学専攻医薬生命
佐々木勇輔

 

    小林明子様

私は、サイエンスの扉を開いた人々の「サイエンスの魂」がなぜ・どのように形成され、その魂と向かい合い、時には突き動かされ、また折り合いをつけながら、人生の局面と立ち向かい、これまでの人生を歩んできたのかをインタビューを通じて解き明かしたい。これまで科学者に対するインタビューには様々な記事・書籍等が発表されている。しかしながら、その多くは現役の科学者に焦点を当てており、途中でサイエンスの道とは別のキャリアを選んだ人々に注目した例は少ない。そこで、人生の一時期に「サイエンスの魂」を形成したものの、サイエンスの道とは別のキャリアを選んだ方として、Lambent IP代表で米国弁理士の小林明子 理学博士にお話しを伺った。彼女は、物理の道を志して当該分野での修士号を国内で修め、アメリカに渡りPh.Dを獲得後、アメリカの学術機関・企業にて研究を進めた。しかし、その途中でサイエンスの道から離れ、弁理士という道を選んだ人物である。彼女は、「サイエンス・物理の魂」とどのように向き合い、また折り合いをつけたのか、彼女の人生の物語からそれらの点を紡ぎ出したい。

 

サイエンスに興味を抱いた経緯と学問の道へ
筆者(以下略):いつ頃からサイエンスに興味を持ちましたか。
小林先生(以下敬称略):小学、中学時代は、別にそんなにサイエンスとか好きだったわけでもないです。サイエンティストになろうとも思っていませんでした。小説家とか、そういうのになりたいとは少し思ったことありますけども、理工系にはあまり興味なかったので。ただ、中学校あたりから、数学とか、理科とかの成績はよかったです。また、文学や社会と違って、数学や理科は客観的なものですので、A=B、B=C、therefore A=Cみたいな。そういう考え方が好きだったのかもしれないですね。自分に合っていたのかなとは思います。要するに、人の心理とか、作者がどう考えているのかとか、そういうのは主観的なことで、そういうことをぐじゃぐじゃ考えるのは向いてなかったと。そういうことぐらいでしょうか。中学校のときに、そう気づきました。
―― では、当時は進路をどのようにお考えでしたか。
小林:高校でも最初は文系に行こうと思っていました。将来外国語やって、国際機関、例えば国連みたいなところへ勤めて、世界中渡り歩ければいいなと思っていました。そのときから留学志向は強かったです。高校生の初めは文系でしたが、2年の途中から、特別に学校の許可を得て、理系に移りました。移った後は、当然数学や物理・化学に力を入れなければならなかったので、そのままの流れで物理を大学で専攻しました。なので、他の物理学者の方々がそうだったように、物理が好きでしょうがないとか、何かノーベル賞取りたいとか、そういう志は抱いていなかったと思います。ただ、外国に行きたいっていう思いだけは、もうともかく根強くあって、じゃあ大学へいって、卒業してから、留学しようかというようなことは、京都へ行った当時、考えることは考えていました。
―― では、大学へ進学後、どのような学生生活を送りましたか。
小林:当時の京都大学は、特段勉強しなくても卒業できる環境でしたね。学生運動はまだまだ盛んだったし。ただ、本当に勉強したい人間は、自分で自主ゼミなどをいろいろ作って勉強をしていました。そういうような風潮のところだったので、最初の1,2年は私もあんまり勉強しなかったです。ただ、そのうち、大学院へいこうと思いました。大学院入ってからは、留学する機会が多いだろうと思ったことも、大きな動機の一つです。大学院はまず東工大へ行き、物性を専門としました。京大の学部の時には、原子核物理の実験やっていましたけど、別のことをやりたいなと思いまして。
―― どのような研究を手がけていましたか。
小林:一般的にヘリウムは4ですけども、物性では、ヘリウム3がフェルミオンであり、電子では「超電導」という現象が非常に有名です。そのヘリウム3で、「超流動」という現象が見られていて、その理論計算を行い修士論文にまとめました。
―― 博士課程は海外の大学に進学されていますが、その経緯をお教えいただけますか。
小林:ともかく留学したかったので、修士課程の最後の1年をその準備に費やしました。あの当時はインターネットなんてありませんので、アメリカ大使館とかへ行って、資料を片っ端から調べて、様々なところへ応募しました。また、GREやTOEFLといった試験に向けた勉強もしていました。さらに、奨学金を取らなければならなかったので、その情報収集に奔走して、最終的には、文部省の国際交流基金という奨学金をいただけることになりました。ただし、行きたいところの大学院の正式な学生としてアクセプトされることが条件でした。なので、ニワトリが先か、卵が先かのような状況でしたね。同時に、アメリカの大学に、50件以上も応募して、最終的にイリノイ大学に進学を決めました。というわけで、日本での最後の1年はもう行動するだけ行動しました。多分そういう(クレージーな)ことは現在の日本の若い人はしないと思います。それだけ自分にとっては、一生のうちで、一番活発に動いた1年間でした。
―― イリノイ大学へ進学を決めた理由などをお聞かせいただけますか。
小林:イリノイ大学が自分にとっては一番しっくりきたのと、その当時は、そのまま超流動をやりたい思いがありましたので、その分野の偉い先生たちのいるイリノイ大学に決めました。文部省から前記の奨学金もらって、それで1979年にアメリカへ渡りました。

 

アメリカへの渡航、Ph.D.取得に向けて
―― イリノイ大学の博士課程に進学後についてお聞かせいただけますか。
小林:イリノイ大学の大学院入ってからは、物性を専門とし、最初の頃は超流動で有名な教授について関連研究をしていました。ただ、理論的過ぎて自分にはついていけないところがありました。幸い、アメリカは希望すればテーマを変えてもいいところなので、途中から半導体を研究されている教授のところへ移動しました。当時ついていたイリノイ大学の教授がインディアナ州のノートルダム大学というところに引き抜かれていったので、Ph.D.の最後の一年は、籍はイリノイ大学においたまま、そのノートルダム大学にいました。その後、メリーランド大学でポスドクをやりました。
―― 当時は、ポスドク以外の進路、また日本への帰国を考えていましたか。
小林:そのときは、もしポスドクの職が見つからなかったら、日本に帰ろうと思っていました。仕方がないので。でも幸いこのメリーランドの口があったので、ありがたいと思いながら、そのポスドク始めました。伸るか反るかといいますか、そのような切羽詰まった状況でした。

 

ポスドク後、企業の研究開発部門へ
―― なるほど。ポスドク後の進路はどうお考えでしたか。
小林:テキサスにある企業へ行きました。その大きな理由は、金銭的な面ですかね。企業のほうが大学の研究者よりも給料が多かったのと、アメリカの大学もアカデミックなりに、やっぱりいろいろ問題があって、テニュアトラック取るための非常に厳しい環境に若い助教授が置かれていて、本当にすごい競争ですね。それも実力も半分、あとやっぱりポリティクスも半分ですから。そういうのもポスドク時代や、大学院時代に私も見てきましたもので、アカデミアは大変かなと。企業に入ると、学生時代にやったこととか、スキルとか、物理の場合ですと、習ったことがそのまま応用できるとかそういうことはないですが、学習や研究に伴って習得したproblem solving skillっていうか、そういうものを使って実際の応用に貢献したいなと、そういうところはあったと思います。
―― 当時、日本に帰りたいと思うことはございましたか。
小林:ありました。何か嫌になっていると感じることは何度もありましたし、もう日本に帰ろうと思ったこともありました。ただ、子どもができまして、それでまあ日本行くわけにはいかないと思いなおしまして。だからそれもまた成り行きでしたね。アメリカに渡ってから40年過ぎましたが、何回か本気で日本に帰ろうと思ったことはあります。
―― どのくらい当時の会社にお勤めになりましたか。また途中で転職などはお考えになりましたか。
小林:その会社には約10年勤めました。途中で、日本に帰ってほかのことをやろうと思ったこともありますし、アメリカ内のほかの会社へ移りたいと思ったこともあって、実際に応募してインタビュー受けたこともあります。でも結局やめました。ただ、10年勤めた後に、心境の変化がありました。ガラッと、生き方や仕事を変えたくなりまして、あの当時、ようやくインターネットが少し普及してきましたので、そこで情報を集めて特許弁理士になろうと思いたちました。

 

特許弁理士へキャリアチェンジ
―― なるほど。大きな方向転換ですね。特許弁理士になるためにどのような準備などをしましたか。
小林:1年ぐらいでいろいろ調べて、特許弁理士になる資格を取るためのセミナーとかも受けに行ったりすると同時に、朝早く起きて勉強したりしていました。このときも人生の変わり目といいますか、いろいろ本当に動きまして、もちろん会社はまだフルタイムで勤めていましたし、子どももまだ小さかったのでまだまだ世話がかかる時でしたので。ちょうど2歳ですね。それに加えて特許弁理士の資格を取るための勉強もして、あのときアメリカへ留学しようと決めたときぐらいのエネルギーを使って特許弁理士の資格を取ろうとしていました。だから三つのことを同時にこなしていました。フルタイムで働いて、母親やって、資格勉強して、あれぐらいエネルギー使えたのはあれが最後です。その後、1999年に一家でカリフォルニアへ移りました。そのタイミングで私の方は資格試験をカリフォルニアでパスしました。それで新しい人生が始まりました。
―― カリフォルニアへ移住後、特許弁理士としての新しいキャリアをスタートしたのですね。
小林:ただ、1999年にカリフォルニアへ移り、資格は取りましたが、それから2、3年、母親業に注力しました。2002年からは、東海岸のフィラデルフィアにある特許事務所に所属し、自宅から遠距離で仕事をし始めました。そのフレキシビリティな勤務形態は、当時の私にとってはまだまだ子どもも小さかったので、大変都合がよかったです。2006年頃からは、もっと修行するために、サンディエゴの大手の特許事務所に転職しました。ただ1年ちょっとでそのような法律事務所形態が嫌になって、サンディエゴのあるベンチャー企業の内部知財部の弁理士になりました。そこに3年ぐらいおりました。そこでの仕事が私の生涯で一番楽しいものでした。
―― どのような点で楽しかったですか。
小林:内部の知財部でエンジニアと直接話す機会が多かったからですね。通常、パテントオフィスとかローオフィスとかですと、弁護士とか弁理士とか固まって『白い巨塔』のような世界、何かそんな感じでした。そういう所は、現場で働いている人たちとかけ離れているわけです。一方、スタートアップの内部知財部ですと、実験している様子を直接見るとか、発明者たちとその場でディスカッションする機会があるなど、非常にアクティブで一番楽しい時代でした。そこでもう何十件と特許出願しました。50件、60件ぐらいかな、ともかく量は多かったですね。ただ、その会社は3年ぐらいでつぶれましたので、そのときに、自分は特許の仕事で独立することにしました。ただ、独立といっても自分でこういう特許事務所名を立てて、1人ぐらい時々パートで手伝ってもらう人を雇うといった、本当に小規模の自分で管理できる程度の範囲で行なっています、2010年からです。大学とか会社に所属するのではなく、自分のコントロールの範囲でできる特許の仕事をするようになったのはそのときからです。
―― 小林先生のご経歴を語っていただき、誠にありがとうございました。最後の質問になりますが、日本の若者、特にサイエンス分野をこれから目指す方にメッセージなどございますか。
小林:日本の若者たち、どんどん外に目を向けていただきたいですね。日本を外から見ると、島国根性が見え見えになりますね。また日本の国は日本語だけですので、内向き内向きになってしまうのは、昔からですけれども、何か残念ですね。しかし、やっぱり優秀な人もたくさんいるわけですので、そういう人たちが花を咲かせないでしぼんでいくのは本当に残念です。例えばノーベル受賞者だって、中国の人口が多いですけれども、やっぱり日本のノーベル受賞者のほうが多いわけですよね。また、論文のサイテーションとか見ても、日本の経済が落ち目になってきたとはいえ、やっぱり優秀な人はすごいなと思いますので。本当に日本の若い人はどんどん外に出ていただきたいと思います。
―― 本日はお忙しいところインタビューのお時間をいただき、誠にありがとうございました。

 

インタビューを終えて
今回インタビューした小林明子様は、物理学の博士号を米国で修めたのち、大学と企業での研究職を経て、お子さんが生まれるのを機に研究者から弁理士に転身して会社を興された経歴を持つ。これまでフレキシブルに働き方を変えてきた小林様、そのキャリアの分岐点における決断とその背景にある考え方、またそれを語る小林様の口調からも非常に力強い意思が感じられた。その根底では「サイエンス・物理学の魂」を大事にしており、またそれを楽しまれていたのが印象的であった。最後に小林様から頂いた、海外に目を向けて・自分で機会を切り開いて挑戦してほしいというメッセージを真摯に受け止め、今後の生き方の一助にしていきたい。

 

2019年10月、サンフランシスコにて